ピエトランジェリ『私は彼女をよく知っていた』(1965)

 国立映画アーカイブの「蘇ったフィルムたち チネマ・リトロバート映画祭」で見た。退屈はしなかったし、伊英仏の何人ものすばらしい役者と、まだ戦後の傷もうかがえるような(街のなかに突如だだっ広く何もない空間が出てくるような)貴重なロケ地を得て、その魅力を引き出しきったところはいいのかもしれない。でも…以下の2点においてこの映画は自分に合わないと思った。
 まず最初のショット。ビーチにうつぶせになって日光浴するステファニア・サンドレッリの美しい足が見切れてどうする?と言いたい。本作は、若く美しい娘アドリアーナが女優かモデル(つまり何らかの被写体)を志願し都会に出て、モデル・エージェントやエンターテインメント業界に群がる人間にもみくちゃにされるモーメントを何パターンも淡々と描いている。そのテーマ自体は、今年早々に報道された芸人の性暴力騒動などをほうふつとさせる点もあり、残念ながらまったく古びていない。ひとりの人間として尊重されることもなく、仕事相手として認識されることすらない若い女たち。カメラを持つ側の男たちに消費される若い女たち。そういう意味では、冒頭の、ヒップさえ撮れたら十分だとでもいうようにつま先を乱暴に断ち切る冷酷なショットは、本作のテーマを明快に表現していて、ぴったりなのかもしれない。実際、映画のなかでアドリアーナはもう一度「足先を美しく撮影されそこねる」という屈辱を反復させられる。そればかりか意図的に汚く撮影された彼女の足先は、映画館内でかかる広告フィルムの一部に編集されてスクリーンに大写しになり、物語としてもひとつの転機となる場面でもある。そのアドリアーナの最期がああである以上、冒頭と映画館のシーンにおける二度のカメラの冷酷さもまた彼女の死因のひとつにしか思えなかった。ほかにも、『カビリアの夜』と比べるとただただ意図不明の文字通りの「面汚し」にしか見えない目薬シーンなど、同様の冷酷さを感じる場面もあった。
 もうひとつは先述の最後のシーンで決定的になった救いのなさだ。トーク岡田温司先生が例示した『カビリアの夜』『ウンベルト・D』の終わり方と比べると、この終わり方は単純でありきたりに思えた。岡田先生レコメンのイタリア映画2作に加え、年始にみた石田民三『むかしの歌』も追加して引き合いにだしてもよいかもしれない。この3作とも、ほぼ男性によって作られた社会や道徳の規範から、何らかの理由で外れた人生を送ることになった女性が出てくるが、それがどんなにおためごかし的で束の間のことであっても、最後にその女性が笑う刹那を観客に見せてくれる。現実的には映画が終わった後彼女たちに待っている人生は厳しいものであるはずだが、それでも、映画のなかだけにしても、彼女たちの笑みには見ている側がその一瞬前まで想像もできなかった活力が溢れていて、それでいて相当な説得力もあった。それが映画のだいご味だと思う。『私は彼女~』はそのような映画的奇跡を作りあげる努力を放棄しているように見えた。アドリアーナをあのような死に方においやる権力構造への批判精神も感じられないので、私はこれを「フェミニズム的映画」だとは思えなかった。男性それぞれの個性がきちんと描かれていたという点で、トリアー『私は最悪。』を思い出した。
 よかったのは、このヒロインは、13歳で地元の水着コンテストで優勝したのを機に映画業界へと足を踏み入れたサンドレッリにとって「もう一人の自分」だったのではないかということだ。一瞬一瞬の選択がひとつでも違っていたら、アドリアーナみたいになっていた。ほかの数多の田舎娘たちと同様に。そのリアリティにおいては確かに「ネオレアリズモ」と言ってもいいかとは思えた。